40年前の事ですが忘年会のシーズンになると思い出します。盛り上がってみんなで一番上の上司に「歌ってくださいよ〜」と何度も言いました。上司は立ち上がって「カチューシャを歌います」と言ってロシア語で歌い始めました。「シベリアに抑留されていたのでロシア語で歌えるんです」と言いました。→
— あふらん/afran🎄 (@pinwheel007) December 12, 2021
v→全員びっくりしてしまって固まってしまいました。上司がシベリアに抑留されていたことを誰も知らなかったのです。それまで、上司もそのことを口にしたことがありませんでした。
— あふらん/afran🎄 (@pinwheel007) December 12, 2021
手拍子を打つようなそんな雰囲気ではありませんでした。歌い終わって黙って座った上司の表情を今でも思い出します。→
→寡黙であまり笑わない上司でした。その上司がたった1度だけロシア語で歌ったカチューシャ。私はあんなに切ないカチューシャを聞いたことがありませんでした。
— あふらん/afran🎄 (@pinwheel007) December 12, 2021
→それまで宴会で「歌ってください」と言っても「俺はいい」と言って何も歌わなかった上司でした。でも、あのときは直立不動でロシア語でカチューシャを歌いました。半分酔っ払った状態で「異国の丘」を歌ったりしていた私たちの姿が耐えられなかったのかもしれないと今ごろになって思います。→
— あふらん/afran🎄 (@pinwheel007) December 12, 2021
→仕事上でも、私たち若手を叱責したりすることもなく、黙々と仕事をし、大雪の日も埋まりながら出勤してきた上司でした。そんな上司がたった一度、自分の心の中にある何かを私たちに示してくれたのがあの歌だったのではと思っています。
— あふらん/afran🎄 (@pinwheel007) December 12, 2021
舞鶴港に上陸する、抑留からの帰還兵(1946年)
https://ja.wikipedia.org/wiki/シベリア抑留
私の母方の祖父は抑留経験者でした。
— ミナ実🍒 (@kawaiiwagakolov) December 12, 2021
父方の祖母の葬儀に祖父が参列した際他の参列者に偶々抑留経験者がおり、意気投合して2人楽しそうに朝まで飲んでましたが死地をくぐり抜けてきた者達の言葉にできない思いをひしひしと感じる光景でした。
あふらんさんの感じた気持ちも少しわかる気がします。
私の祖父もシベリア抑留者です。
— みけみけ☺︎⭐️2人目26w (@rwAwIvEbxOcbapd) December 12, 2021
大した暖房器具もなく朝起きたら誰かが亡くなっているような過酷な環境だったそうです。孫の私達に直接話すことは無かったですが、自分の子には話していたそうです。
たまに思い出したような顔してましたが辛そうでした、経験した人にしか語れないものがありますよね。
祖父がシベリア抑留経験者です。『頭が良いだけの者は肉体労働に耐えられず、身体が強いだけの者も過酷な肉体労働でダメだった、俺は計算が出来たから上層部に取り入って計算係をして、最低限の肉体労働は耐えれたから生き残った』と言ってました。孫にだけ話して父には最期まで話しませんでした。
— Kazuhiko Miyasaka (@k_38) December 13, 2021
私「可愛い服が欲しい」父「ついてこい」洋服屋に行くのかと思ったら近所の家に行って「娘にぴったりの服を何着かくれ」と言った。私は父のこういう男らしいところが大好きだった。友人のお父さんもシベリア帰りでしたね。40年くらい前なら、そういう方はまだ社会の一線で活躍されていたと思います。
— よーこアラカルト (@yokoalacarte) December 12, 2021
オタクニュース
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